営農情報

2015年7月発行「FREY特別号」より転載

キュウリの周年栽培への飽くなき挑戦。周年供給体制構築で取引先からの厚い信頼を獲得

どうすれば取引先から絶対的な信頼を得られるのか。就農当時からこの課題を意識して経営を続けてきた。面積あたりの投下労力が多いゆえに大規模生産が難しいキュウリにチャンスを見出し、周年栽培に目標を定めた。失敗を経験しながらも2006年から365日、1日も休むことなく1日1トンの出荷を継続している。安定した出荷先を確保し、取引先から厚い信頼を得ている。

農業生産法人(有)重元園芸

重元 茂 様

熊本県 宇土市

Profile
1953年熊本県走潟町(現在宇土市)生まれ。主力作物のキュウリを周年供給する全国でも珍しい経営体。経営面積(延べ)は14haで、キュウリ(3ha)、米(4ha)、たまねぎ(4ha)、白ねぎ(3ha)を生産。役員(4名)、社員(7名)のほか、パート、外国人研修生など常時20名で生産にあたる。2001年に法人化。売上は約1億550万円。

絶対的信頼を得られる作物をつくりたい

重元園芸がある宇土市走潟町は、名前が示す通りかつては干潟で、江戸時代に干拓された場所。平らで温暖な特性を活かし、施設園芸発祥の地としても知られる。
メロンと米の複合経営を営む家に生まれた重元茂さんは高校卒業後、静岡のメロン農家のもとで修業を受けた。その後、実家に戻ってメロンづくりに専念…とはならず、少し回り道をした。水耕トマトのプラントの施工販売や、ゴクラクチョウと珍重される花「ストレリチア」栽培をした時期もあった。「ゴクラクチョウは数年儲かったが、トマトのプラントはうまくいかず数百万円を2年で失った。いい勉強をさせてもらった」。

回り道には理由があった。「お金を儲けて、オランダ型のハウスを導入しようと思った」。近代的な施設を建てて、収量、品質とも高い野菜づくりをしようという狙いがあったのだ。この夢は遠のいたものの、両親とともにメロンづくりは続けており、幸い生計は成り立った。
「メロンでいい思いをしたこともありました」と茂さん。研修先の静岡県で6個入りの箱入りメロンが贈答用に高値で販売されていたのをヒントに、自身のアンデスメロンも贈答向けに豪華な箱に入れて福岡県の卸売市場に持っていった。すると予想以上に評判を呼び、6個入り1万5000円という破格値がついた。九州地方ではこうしたスタイルの売り方が珍しかったこと、バブル景気の始まりで世の中が沸いていたことも高値の販売を支えた。

ところがバブル景気最中の1980年代末、茂さんはいきなりメロン生産をやめる決断をする。直接のきっかけは大雨でメロンのほ場が水に浸かったことだ。土壌中の細菌が繁殖し、その克服には数年間かかることを懸念してのことだが、その前からメロンを主力につくり続けるべきかどうか模索していた。「熊本の農業は消費地に向けた“大量生産・大量流通”の農業。静岡のメロンのように知名度があるわけではない」(茂さん)。買い手から絶対的な信頼を得るメロンのような作物がつくりたい。熊本では何がむいているのか。メロンと向き合いながら一人葛藤を続けていた。

大雨がきっかけでメロンから離れ、いよいよ作物を見つけざるをえなかった。茂さんが選んだのはキュウリだ。「収穫だけでも1日に2回するなど手間がかかる作物なので、大規模面積でやる農家はいない。逆に考えればチャンス。まとまった量をつくることができれば取引先の信頼を得られるはず」。

気持ちが固まると、メロンをやめた年から行動に移した。30aからのスタートだったが、規模拡大すれば人出が足りなくなるのは明らかだったため、中国から外国人研修生2名を招いた。そして離農する人からハウスを借りて規模を拡大していった。この頃になると経営感覚も磨かれ、高額投資のハウスを建てる考えは消えていた。「ハウスにかかる莫大なお金をキュウリで返していくのはどれほど大変なことかやってみて実感した。できるだけ設備投資をせずにどこまで利益を出せるかが大切だと思うようになった」。

周年栽培で絶対的信頼を獲得

キュウリ中心の栽培にシフトした茂さんは“周年栽培”に目標を置いた。走潟にあるハウスの収穫時期は12月から始まり6月には終わる。だが、キュウリの需要が多いのはむしろ夏だ。規模拡大にともない従業員や研修生の数を増やしており、「彼らに安定的に給料を払っていくためにも、周年栽培は必要」と判断した。
夏に収穫できる高冷地を探し、標高600mのところにある南小国町のほ場を確保。走潟町から片道2時間の距離だ。栽培担当のスタッフが住めるよう同町の宿泊施設を借り切り、走潟と同町でのリレー栽培を始めた。

高冷地での栽培は茂さんにとっても初体験で、失敗の連続だった。キュウリの主要害虫である「ミナミキイロアザミウマ」が媒介するウイルス病の対策には手を焼いた。高冷地とはいえハウス内の雑草対策も重要だ。雑草を抑えるため地面に砂利をしきつめるなどできる限りの手立てを打った。両産地での収穫時期を少しずつ延ばしながら、出荷のない期間を減らしていった。キュウリを始めて15年以上の歳月を経てついに周年栽培にこぎつけた。2006年から1日に約1トンのキュウリを365日、1日も欠けることなく収穫・出荷できる体制を整えている。

周年安定供給という点だけでも取引先への強烈なPRになるが、味と鮮度での差別化にも余念がなかった。アミノ酸主体の肥料を与えることで通常4度といわれる糖度を6度まで高めた。鮮度保持にも気を配るため、作業者にはハウスでの収穫と同時に選別をするように指示を出す。その後すぐに予冷庫で保管することで外気に触れる時間を極力少なくしている。

努力は実を結んだ。現在、すべてのキュウリが大手スーパー、生協などに安定的に出荷される。しかも事前に価格を決めたうえでの契約栽培だ。重元園芸でのキュウリ1本の原価は27円。それを34~35円で販売する。30円以上で売れば採算に乗るというから、安定した利益が得られる。相場の高騰という恩恵にあずかることもないが、暴落の影響も受けない。何よりも原価をもとに価格交渉ができるということ自体、取引先からの厚い信頼を得ていることに他ならない。メロン栽培では得られずに終わった信頼をついに勝ち取ることができた。キュウリに主力を移した当初、2000万円だった売上がいまでは1億5000万円を超えるまでになった。「正直ここまで伸びるとは思っていなかった」と感慨深げに話す。

海外の動きにも目を配る

2008年から高冷地のほ場を南小国町から山都町に移転。現在、茂さんは山都町でのキュウリの生産全般を管理しており、本社のある走潟と頻繁に行き来する毎日だ。二人の息子も就農し、長男の太郎さんは総務全般、次男の二郎さんは走潟のハウスの管理を任されている。キュウリの他にもたまねぎおよび白ねぎ、水田では無農薬栽培米をつくる。たまねぎは水田の裏作としてつくっている。いままでトマト、アスパラなど多様な品目を生産してきたが、年間の作業が均等化できる作物に落ち着いた。

キュウリは10aあたり20トンの収量で当初の目標をほぼ達成できた。たまねぎ、白ねぎは「歩留まりが70%ほど。土壌改良など基本的な技術を積み上げていくしかない」と気を引き締めつつ、「生産部門はほぼ二人の息子に任せているから、あまり口を出さないようにしている。自分もそうだったが、親からいわれるのではなく、自分の責任でやったほうがいい。失敗もするが面白くもなる」と目を細める。
茂さんはいま海外を視察で訪れたり、熊本県農業法人協会の副会長として若手農家の指導に力を入れたりしている。つい先ごろも台湾に出向き、広大な農地で先進的な農業が展開されている現実を目の当たりにした。輸出の計画は当面ないが、これからの農業は海外の動きに目を配りながら方向性を見つけざるを得ないと痛感している。
「農産物輸出に期待が高まっているが、日本生まれのりんごの品種、フジが中国で大量に生産されEUに輸出されている。米も日本の品種が海外で安価で生産されているなど状況は刻々と変化している。“日本の農産物は高品質だから輸出できる”という一面だけとらえるのではなく、海外の現状を知った上で、戦略を立てていかなければだめだ」と指摘する。

かつては中国人の研修生を受け入れていた重元園芸。いまはベトナムからの研修生を受け入れている。「ベトナムでも経済発展で賃金が上がり、日本との経済格差が多少なりとも縮まっている。この先もベトナムから研修生を呼べるとは限らない」と危機感を抱く。茂さんはこれまで早いペースで規模拡大してきたが、「いまは規模拡大より、現在の設備で目標とする収量、品質を確保できるかを追求する時期かもしれない」という。

3haあるキュウリのほ場の8割は中古ハウスだ。連棟型ハウスに比べ10分の1の設備投資ですむ単棟のハウスもあるが、収量や品質面では連棟ハウスと違いがないという。
海外の動きに常に目を向けながら、できるだけ少ない設備投資で取引先が求める農産物を安定供給し、取引先との信頼を築いていく。模索の末、茂さんが確立した経営スタイルだ。

生産現場でのリスクの最小化を目的とするGAP(農業生産工程管理)の国際基準ともいえるグローバルギャップの認証を取得した。

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