営農情報

2013年10月発行「FREY2号」より転載

立地条件を最大限にいかした高収益農業。確かな技術が収量と品質の両立を実現

北海道内では雪解けが早い道南特有の気象条件を生かし、府県への野菜の早出しを強みとする農業を展開。高値の時期に売り切る戦略を支えるものは丁寧な土づくりとこまめな排水対策、そして観察力。
作物の様子を見ながら必要な手立てを打つ農業の本質を極め、家族が力を合わせて反収を最大限まで向上する農業を追求し続ける。

澤田 雄一 様

北海道 亀田郡七飯町

Profile
1954年生まれ。59歳。北海道立大野農業高校を卒業と同時に就農。作物は米(7ha)、長ネギ(3ha)、人参(5ha)、大根(2ha)、スイートコーン(1ha)。野菜はJAに出荷。コーンと米はJA出荷のほか直売も行う。労働力は父、妻、次男夫婦のほかパートの9人がいる。

独自の経営スタイルを確立

北海道の玄関、函館から北に約16㎞の距離にある七飯町。北部には美しい湖畔で有名な大沼国定公園もある。同町を含む道南の農家の耕作面積は、北海道全体の平均耕地面積(約22ha)と比べると決して大きくない。
だが澤田雄一さんは、まだ雪が積もっている年明けから畑に融雪剤をまき、作付けを早め人参、長ネギ、大根、スイートコーン、米といった作物をうまく組み合わせ、限られた農地を最大限に利用した農業を展開している。周辺の農家に比べ、1,2品目多い。加えて丁寧な土づくりによって反収と品質を向上させ収益を高めるという独自の経営スタイルを確立している。

現在、立地条件を最大限に生かして18haの農地をロスなく使い切っている。今後、稲作の規模をさらに拡大することが目標だという。2013年には精米施設も整備した。
現在の面積は18haだが、父、三郎さん(86)が分家一代目として農業を始めた頃は水田1ha、畑地2haの合計3haだった。
1972年、雄一さんは地元の農業高校を卒業後、すぐに就農。当時、澤田家では主力作物をジャガイモから人参に切り替えはじめていた。それというのも1971年のジャガイモの輸入自由化以降、国内価格が下がり始めていた。そこで父、三郎さんが先頭に立ち、地元の仲間にも声をかけ人参、長ネギの作付けを始めた。仲間は次々に増え、やがて「七飯町野菜生産出荷組合」の設立にいたる。町も1979年、道内で初めて真空予冷庫を導入し、関東や関西向けに野菜を供給する体制を整えていった。

地の利をフル活用する

澤田家では寒冷な北海道で、まだ肌寒い春先から栽培を始めるために、大根と人参でトンネルマルチを活用することにした。手間のかかるトンネルマルチ栽培を取り入れたのは、府県への出荷ピークを梅雨時に合わせるためだ。府県のように長雨で野菜が腐ることも少なく、日持ちのよい北海道産の野菜は高値がつく。しかも同町がある道南は、距離的にも府県と近いなどさまざまな“地の利”がある。

この“地の利”を雄一さんはさらに徹底的に活用することにした。澤田家の農場は町内にそびえる七飯岳や烏帽子山の南斜面に位置し、他より雪解けが早い。そこで1,2月からに融雪剤を何度も散布し、雪を融かした畑に3月の始めから人参と大根の種まきにとりかかる。こうすることで大根は5月末から収穫ができ、人参も早出しができる。早出しすれば市場で高値がつく。

出荷開始のみならず“終了”にも計画的に取り組む。「人参の出荷は海の日(7月15日)までに終えるのが毎年の目標」という。人参は学校給食で大量に使われる代表的な野菜だが、7月下旬から学校が夏休みに入り、需要が極端に減り、値崩れが始まる。その前に出荷を終えようという戦略だ。「早く言えば、“先行逃げ切り”を狙っているんだ(笑)」(雄一さん)。一般的に北海道産の露地野菜といえば、本格的な出荷が始まるのはお盆の頃からだ。その前に出荷を終え、露地の長ネギづくりに取りかかる。融雪剤を散布する年明けから長ネギの収穫が終わる10月末まで澤田家の農場はフル稼働となる。

農場がある七飯町はいち早く西洋農法が取り入れられた地域でもある。1855年(安政2年)の箱館開港に伴い、函館港を出港する外国船に食糧を供給する基地となったからだ。写真は雄一さんの父、三郎さん。86歳でなお現役。毎日のように圃場に出て作業をする。「田んぼの水管理はいまも親父にかないません。長年の勘で微妙に調整する。おいしい米づくりに欠かせない」と雄一さんは言う。

強みを支える確かな技術

相場が高いうちに出荷を終えたい。出荷のタイミングを見誤らないことが安定経営につながる。農業者であれば誰もが思うことだが、実際には毎年のように起こる異常気象の中で、こうした目標を達成するのは容易ではない。

今年も全国的に天候は不順だった。それでも雄一さんは、計画通り7月15日までに終えた。それは地の利を生かすだけの確かな技術があるからだ。技術を支えるものは「土づくり、排水対策、適期防除」と雄一さんは言い切る。

土づくりは養豚農家との耕畜連携ですすめる堆肥づくりが基本だ。水田で稲の収穫後、稲わらを近隣の養豚農家に供給し、敷料として使ってもらう。使い終わった敷料を雄一さんが引き取り、完熟堆肥に仕上げる。「これまでの経験上、牛の堆肥よりも豚の堆肥のほうが野菜の味がよくなるようだ」という。

引き取った堆肥は農場内に設置した堆肥バーンに投入し、米ぬか、発酵菌と混ぜて切り返しを行いながら1年以上かけて完熟堆肥にし、秋に散布する。「切り返しは何度も丁寧にする。それがよい堆肥づくりにつながる」と手間を惜しまない。丁寧な土づくりは雄一さんがタイムリーな出荷体制に効果を発揮する。「地力のある土壌に作物を植えると、根がしっかりと張って生育もよくなるので、このあたりの地域の平均より1週間ほど早く出荷できる。そういったことも土づくりのおかげだと思う」。堆肥投入は農産物の味を明らかによくする効果だけでなく、連作障害の抑制にもつながる。
排水対策を徹底するために、収穫が終わった秋にサブソイラで心土破砕をおこなったり、暗渠等をこまめに修理をすることも欠かさない。連作による線虫対策として、野菜の収穫後に対抗植物としてマリーゴールドを植え、畑にすき込む。

そういった確かな技術を確立できたため、澤田家の利益率は他の生産者よりも一歩リードしている。売上が最も多い長ネギの反収は100万円。一般に70万円といわれるが、A品率が高いためこれだけの収益性を維持できる。米やスイートコーンの一部は直売を行っている。特別な営業はしていないが、味のよさがクチコミで広がり、6ha分の米は地元の飲食店、幼稚園、消費者直販で売り切れるほどだ。

野菜の収量や品質を左右する土。稲わらを供給した養豚農家の堆肥を引き取り、米ぬか、納豆菌、発酵菌などの資材を加え1年以上かけて完熟堆肥に仕上げ、畑に散布する。「自分でつくった堆肥と買ってきた肥料を使い比べると、野菜の味が全く違う」(雄一さん)そうだ。

家族だからできる農業がある

野菜を始めた当初はすべてが手作業だったが、平成に入る頃から機械化が進み、播種からマルチがけ、収穫、洗浄、選果、箱詰めにいたるすべての工程が機械化された。それとともに経営面積の拡大も進んだ。規模拡大は雄一さんの就農当初からの目標であり、離農者の農地を積極的に預かるなどして広げてきた。その結果、七飯町の農家の平均面積である約4haの5倍近い規模まで広がった。

規模が広がると管理が行き届かなくなるという不安要素も雄一さんには無関係だ。大規模面積をこなしながらどうやって品質を維持しているのか?雄一さんは「作物の顔をよく観察するしかない」という。「顔色を見て、生育状態を判断し、必要な手立てを打つ。子供を育てるのと同じ。これが手間だと思ってしまう人は百姓には向いていないだろうね」
作物の状態を常に観察し、タイミングを逃さずに必要な手立てを打つ―。これこそ父、三郎さんから学んだことだという。

高齢になっても毎日、現場に出るという三郎さん。水田の水管理についてはいまだ雄一さんも頭が上がらないそうだ。農業は数字やデータで判断するデジタルの部分と、人間の長年の勘がものをいうアナログの部分の組み合わせで営まれる。「人間の勘が求められる細かい部分は、家族じゃないとわからない。作物の顔を見て判断するクセがついたのは父親がそうやっていたから。ここまで来ることができたのも家族のおかげだと思う」

7年前に雄一さんの次男、良太さん(24)が就農した。雄一さんの背中を見ていた良太さん自ら「自分もやる」と農業の世界に飛び込んだ。いまも現役で仕事をする三郎さんともども三世代で農場を切り盛りする。「65歳を過ぎたら、息子に経営移譲し、いまの父親のように息子ができない部分を補佐できればと思っています」と目を細める雄一さん。親から子、そして息子へと農業への情熱は途切れることなく受け継がれていくだろう。

収穫した人参を洗浄し、選別機にかけて箱詰めする。すべての工程が機械化されている。機械化によって規模拡大が実現した。野菜は主にJAを通じて本州に出荷される。

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