営農情報

2014年10月発行「FREY4号」より転載

冷害が多発する不利な条件を丈夫な苗づくりや土づくりで克服。基盤整備と機械化の一貫体系により県内屈指の大規模農家に

子どもの頃から父が米をつくる姿を見て育ち、「自然の成り行き」と就農に迷いはなかった。長く寒い冬の終わりを待ちわびて始まる春作業。暖地と比べ、実践可能な技術、栽培できる作物は限られる。
それでも、「地域の人々の信頼に応えたい」と積極的に農地を集約し、大型機械による一貫作業体系を構築し、大規模経営体に成長。将来、二人の息子とともに地域の農業を担っていくことを夢見ている。

(有)秋田谷ファーム

秋田谷 和智 様

青森県 五所川原市

Profile
1976年生まれ。38歳。秋田谷ファーム取締役専務として、父の長一郎社長(65)や家族と大規模稲作経営に取り組む。水稲35ha(主食用13ha、飼料用22ha)、大豆35haのほか、育苗が終わったハウスを活用しトマト(40a)を栽培。周辺農家から約500haの無人ヘリによる病虫害防除作業も受託している。労働力は父のほか母の催子さん(60)、奥さんの静さん(32)。

丈夫な苗づくりで冷害を回避

4月から6月までの春作業が、秋田谷和智さんのもっとも緊張する時期だ。午前3時に起き、暗やみのほ場に出て作業にとりかかる。「一日でどれだけ多くの作業ができるかで勝負が決まる」。

農家の高齢化によって、次々と集まってくる農地をどう引き受けるかは、担い手共通のテーマだ。だが冬が寒く、長い津軽の地では適期に作業できる時間が非常に短い。寒い地域特有の課題でもある。

しかし、和智さんは周辺の農家から「やってくれ」と頼まれれば決して断らない。「手余りしたと言いたくない。地域の人が信頼して任せてくれるから」と70haの大面積の機械作業を父、長一郎さんと二人でこなす。

父が米をつくる姿を見て育ち、小学生の頃からコンバインに乗ってきた。「農業をやるのは自然の成り行き」と青森県立五所川原農林高校に進学。卒業した1993年にすぐに就農するつもりだったが、奇しくも東北・北海道を中心に未曾有の大冷害に見舞われた。オホーツク海気団に乗って吹き寄せるやませによって、津軽地方は常に冷害のリスクにさらされる。冷たい風に耐えきれない幼苗が黄色になり、やがて白くなって枯れる。これが白枯病だ。全滅を免れ、たとえ一部の苗が生き残っても大幅な減収につながる。

この年の作況指数は全国平均で74、青森県は28と全国でも最低水準となった。「この先またどうなるかわからない。何があってもいいように」と家族で相談し、青森県立営農大学校(七戸町)に進み、2年間みっちり勉強した。この間に産業用無人ヘリの免許も取得。就農後に兼業農家や高齢農家からヘリでの防除作業を受託するなど、売上にも貢献することとなった。

大学校を出た和智さんは、満を持して就農。それからまもなく、冷害に耐えられるような丈夫な苗をつくるための「プール育苗」が普及するようになった。秋田谷ファームでも導入を始めた。

プール育苗は、ハウス内の木枠とビニールでつくられた簡易水槽(プール)内で育苗する方法で、低温時以外はハウスの窓を開けておく。潅水の手間がかからず省力化につながるが、冷害の多い地域では丈夫な苗づくりに主眼を置く。幼苗のうちから外気にふれさせるので、背丈の伸びは悪いが、その分太く、根張りがよい苗になる。「このあたりでは苗づくりが大勝負。春に問題が起こると取り返しがつかない」といまなお気を引き締める。秋田谷ファームがある市浦地区は津軽中央部に比べ風が冷たく、夏場の平均気温は常に1度低いだけに、丈夫な苗づくりへの思いは人一倍強い。

その思いはハウスの準備にも表れる。まだ雪深い2月、和智さんはレーザーレベラーを育苗ハウスに持ち込む。苗箱に水が均等にいきわたるようにするのだ。「ハウスでレーザーレベラーを使う農家はこの辺じゃいない。まず、正確だな(正確に均平がとれる)」とにんまり。苗がそろえば、移植後の苗の育ちもそろう。これらが収量増につながるのはいうまでもない。また稲を収穫すればただちに稲ワラをすき込むことで、地力を向上させることもおろそかにしない。

徹底した大規模省力稲作を実現

父が一人で農業をやっていた当初、面積は1.6haだった。和智さんが2000年に農業高校に入ってから、意欲的に規模拡大を図り、就農した頃には20haまで増えた。その後も周辺の農家から「貸したい」と言われれば借り、「売りたい」と言われれば購入し、やがて県内で屈指の大規模稲作経営に成長した。

規模拡大を可能にしたのは、基盤整備と大型機械による一貫作業体系を構築したからだ。行政による基盤整備により、作付け面積の半分近くが1ha区画になった。そればかりでなく、自らが所有する水田の畦畔を取り除いたり、担い手同士で話し合って、農地の交換も行うなどした。その結果、平均で70~80aと恵まれたほ場環境が生まれ、大型機械の導入によってかなり効率的な作業ができるようになった。

だが決して機械頼みの経営ではない。和智さん親子は体力の限界まで挑戦した。45haの水田をすべて移植栽培でつくった時期もある。さすがに自分たちだけではやりきれず、地域内ですでに田植えを終えた農家に頼んで、手伝ってもらうこともあった。

「移植栽培のみでこれ以上の規模拡大は難しい」と直播にも挑戦した。営農大学校で学んだ経験を活かし、乾田直播と湛水直播にトータル4年間挑んだ。ところがやませが影響して「実がなっても未熟米が多い。それでもあきらめきれず普及員に相談したら“無理なもんは無理”と言われた」。

行き着いたのが大豆作だった。それまで転作田では全量加工用米だったが、青森県単独の事業を活用し、思い切って播種機やコンバインなど大豆作に関わるすべての農業機械を購入し、5年前から始めた。面積の半分を大豆作にすることで、念願だった作業分散が実現した。

これらやってきたことは結果として如実に現れている。大型機械による一貫作業体系により水稲10aあたりの労働時間は16・5時間と青森県平均の約6割、米の生産費は88,000円で、こちらも県平均の約7割だ。それでいて10aあたりの収穫量は約10俵と県平均より多い。これらの実績が評価され、2005年度全国農業コンクールにおいて農林水産大臣賞を、農林水産祭農産部門では内閣総理大臣賞を受賞した。

ここまでたどりついても午前3時起きの作業は続く。なぜそこまでするのか。「若いからだべな」と照れ笑いする和智さんだが、その表情からは、冷害のリスクと直面しながら米をつくり続けていた先人たちの知恵を受け継ぎ、北の大地の水田を守りぬくというガッツが伝わってくる。大豆畑の耕起を終え、ジョンディアトラクターから降りた和智さんはつぶやく。「朝7、8時からのんびり仕事をするなら、こんな大きな機械に乗る意味がない」。

大豆作でも新技術導入に意欲みせる

「米は父親がやってきたことを習って覚え、ある程度形になった。大豆は最近始めたばかりで、工夫するところがたくさんある」と話す和智さん。当面は、密植栽培を導入し、反収を現在の平均3俵から5、6俵程度に引き上げたいと考えている。作付け面積が経営規模全体の半分に達するようになったため、砕土と播種を同時にできる作業機の導入もゆくゆくは検討するつもりだ。

主食用以外の水田では、藤崎町にある養鶏業者と連携し、4年前から飼料用米を生産する。大豆作が適していないほ場、主食用米の収量が上がりにくいほ場の有効活用になる上、籾出荷できるので籾すりのコストがかからない点も助かる。周囲の農家にも「一緒にやろう」と声をかけ、現在23人で協議会を発足。和智さんらの米を食べた鶏の卵は「こめたま」として販売される。

2005年に法人化し、秋田谷ファームとなった。社長は長一郎さんだが、和智さんが26歳で結婚した頃から、経理を任され、もう10年近く経営全般を見ている。年齢を重ねてきた長一郎さん、育苗後のハウスを使ってトマトづくりをがんばってきた母、催子さんにあまり無理はさせられないと、若い従業員の採用を検討している。

津軽地方では、田植え後のさなぶりにあたる行事を「虫送り」といい、毎年6月に五穀豊穣を祈りながら集落内を練り歩く。先輩世代が復活させた行事で、和智さんも毎年参加する。この行事には地域内外の若者も参加するため、交流しながらリクルート活動もするつもりだという。

そんな和智さんには大きな夢がある。妻、静さんとの間に生まれた二人の息子がいずれは継いでくれればと思っている。幸い、中学校1年の長男陸斗君、小学校4年生の次男堅斗君とも「お父さんみたいにトラクターに乗って仕事がしたい」と言っているそうだ。時には親子で並んでカタログを眺め「こんな機械があんだ」と機械談義に花を咲かせる。そう話す和智さんの表情はこの上ないほどうれしそうだった。父から渡されたバトンを再び、息子へと受け継ぎながら、北の大地での稲作をしっかりと守っていくのだろう。

林業関係の仕事の傍らで農業を営んできた父、長一郎さん。和智さんと共に規模拡大を図ってきた。
稲の育苗ハウスを使ってトマト栽培をする母、催子さん。「すべてが手作業のトマトより自分には米が向いている」と和智さん。米は一部農協に出荷し、大半はまとめ買いをする固定客に販売したり地主に小作料として渡す。

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