営農情報

2015年10月発行「FREY5号」より転載

地域とともに歩む農業。家族で力を合わせ地域の農業を伝え、守る

生産量、栽培面積とも全国一のいちご産地で耕種作物といちごの複合経営に励む。「地域の農業を伝え、守る」を信条に自らの経営発展のみならず、地域全体の農業活性化につとめる。家族で役割分担を明確にするなど組織的運営をこころがけ、いちごの体験農園を通じ消費者に農業の魅力を伝える活動にも情熱を傾けている。

猪野さんちのいちご農園

猪野 忠秀 様

栃木県 真岡市

Profile
1952年生まれ。経営面積は96ha(作業受託22haを含む)。作物は水稲(67ha)、小麦(30ha)、大豆(13ha)、秋そば(14ha)、いちご(40a)。妻と息子に3人が認定農業者となり農地を積極的に引き受け、地域の貴重な担い手となっている。次世代の担い手を育てるため学生や企業からの研修生も受け入れている。労働力は家族4名のほか、8名を雇用。

地域を念頭に置いた経営

いちごの生産量全国一位といえば栃木県。そして県内で最大の面積を誇るのが真岡市。この地でいちごと米麦中心とした大規模経営を行うのが猪野忠秀さん(63)だ。
就農した20代半ば、借地を含め5haだった経営面積がいまでは100ha近くになった。「最初は親戚から頼まれて作業を受託し、数年すると田んぼごと借りてくれと言われた。今度は集落以外の高齢農家から作業受託の依頼がきて、数年後にそこも借りながら増えていった」と忠秀さんは話す。

2002年、長男の雄介さん(33)が就農すると規模拡大のペースが速まった。その時も忠秀さんらは常に「地域」を念頭に置いていた。離れた地域の農家から「うちの田んぼを面倒みてくれ」と頼まれることもあるが、近隣に別の担い手がいれば、忠秀さん自ら“仲人”となり、担い手と地主の関係を取り持つ。地域で信頼の厚い忠秀さんが仲介に入ることで地主も納得する。「農村はやはり信頼関係が大事。間に入ることでお互いが安心する」(忠秀さん)。そんな忠秀さんには安心して田んぼを預けられるという地主が多いのも十分うなずける。

1haを超えるものから10aの小さいものまで245筆あるほ場を忠秀さんは頻繁に訪れ、水管理をする。水路にゴミを見つければ車からおりて溝さらいをし、帰り道に生い茂る草を見つければ、後から刈りに出向く。「子供たちの通学路だと(車の)見通しがきかなくて危ないから」。ようやく家路に帰るという時も、道端で具合の悪そうな高齢者を見つけると「家まで送るよ」と乗せる。忠秀さんの妻、正子さん(63)は「地域の見回り役ですよ」とほほ笑む。

地域とともに歩むという考え方は父、一雄さん(故人)から受け継がれている。1956年、一雄さんは「二宮町でもいちごを」と先進地に教えを請いに通い、やがて栽培にこぎつけ、いちご産地としての原点を築いた。「この時も11名の仲間と共に始め、後に教えてほしいという人にも技術を伝授したそうです」(正子さん)。自分だけではなく、地域の人と共に豊かになろう――。猪野家に代々受け継がれる考え方は、江戸時代後期に忠秀さんの地元である二宮町で農業土木や農村復興に尽力した二宮尊徳の思想に基づいている。歴史を刻んだ偉人の教えが色あせることなく、現代に通用することを農業という根源的な職業に携わる農業者だからこそ強く感じるのだろう。

役割分担が明確な組織的運営

猪野さん一家は役割分担を明確にしている。就農した頃は家族が協力してすべての仕事をこなしてきた。その後、水田の面積が増えるに伴い、耕種は忠秀さん、いちごは正子さんが担うようになった。二人が36歳の時、一雄さんから「経営を任せるよ」と通帳を渡された。「周囲から『経営委譲はまだ早いんじゃないか』と一雄さんに言う人もいたようです。でも家族のことは自分たちが一番知っているのだし、自分たちで決めた通りにしようと言ってくれた」と正子さんは振り返る。

それが1998年に夫婦で締結した家族経営協定(家族同士で仕事や生活に関する役割分担や業務内容を取り決めするもの)につながった。この時は、『月に一度は旅行しよう』など生活に関する項目が多かったが、雄介さん就農後にあらためて締結、耕種は雄介さん、いちごは正子さん、忠秀さんは統括と役割を明確にした。「各々が自分の分野を持ち、段取りや計画などはそれぞれが決めます。そうすることで責任感が生まれ、その上で協力しあえるのがいいところだと思います」と正子さん。家族経営でありながら、組織的運営を行う点が同農園の特徴だ。

「農業に関心を持つ人が少しでも増えれば」と県内の高校生や大学生のインターンシップ、企業からの研修の受け皿となり親身になって指導も行う。受け入れた人は有に100人を超え、独立していちご農家になった若者もいる。

いちご農園代表 猪野 正子 様(左)、耕種代表 猪野 雄介 様(右)

体験を通じた消費者との交流も

米や麦、大豆、いちごなどの作物は、JAはが野に出荷。6次産業化が注目され、自身で販路開拓する生産者が多いなか、忠秀さんたちは「本業である生産を大事にしよう」という考えを貫いている。「直販するとなれば営業も必要だし、顧客管理などの経費、代金回収のリスクも負う。さまざまなコストをはじいた上での結論」と迷いはない。
その一方で、消費者との信頼関係はしっかりと築いている。1996年、まだ県内に観光いちご園が少なかった頃に、正子さんは消費者を招いての摘み取りを始めた。
1997年に開設された「道の駅にのみや」の立ち上げから関わっている正子さんは「冬は特産のいちごを販売できる。夏にもPRできる商品があれば」と自ら生産するいちごを原料としたジャムを開発。加工は確かな技術を持つ友人に任せ、多い日で一日40個売れるヒット商品に育て上げた。

現在、いちごの摘み取りは地元の小学生や幼稚園児、知り合いや、農園をたびたび訪れてくれる人を中心に体験農園として開放している。いちごができるまでの過程や生産者の思いなどを伝え、少しでも農業を知ってもらおうという活動だ。“幻のいちご”と別名もある品種「とちひめ」の摘み取りもしてもらう。「とちおとめ」とともに栃木県が開発した品種で、大粒でジューシーかつフルーティー。摘み取りをした人に「どこを歩いてもここのいちごにはかなわない」と言ってもらうのが何よりの励みになっている。地域の役を多数引き受けている正子さんを気遣って、雄介さんから「(労力のかかる)いちごはやめてもいいんじゃないか」と言われたこともあるが、「農業に関わりのない人や、次の世代の人たちに農業について理解してもらい、よき応援者になってもらうための大事な場所だから」と続けている。

いま、農園は忠秀さんから雄介さんへ経営の代替わりに向かう時期だ。子供の頃、一雄さんからいつも農業の話を聞きながら育った雄介さんは「自然の流れで就農した」と語る。2014年には新たな乾燥施設も整備、省力化にむけて乾田直播にも取り組む。地域の後継者同士の連携を深めており「作業が早く終われば、互いに手伝いあう関係をさらに強めていきたい」と言う。地域とともに歩む農業を堅持しながら、家族一丸となったメリハリのきいた経営は今後も続くに違いない。

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