営農情報

2015年7月発行「FREY特別号」より転載

良食米づくりのために理想のバランスを追求。研究の成果が実を結び「日本一おいしい米」に

収量から品質へと米のニーズの変化を見抜き、北海道で良食米づくりに挑んできた。食味が優れたゆめぴりかが登場するといち早く生産部会を発足させ、初代部会長として300人を超える部会員をまとめ、牽引してきた。日本一おいしい米を決めるコンテストで見事グランプリを獲得する実力の持ち主。常に一歩先の稲作のあり方を模索し実践に移している。

南坂農場

南坂 明憲 様

北海道 栗山町

Profile
1949年栗山町生まれ。幸子夫人とともに14haで米中心の経営を営む。主食用米(10ha)、春小麦(3.8ha)、メロン(ハウス2棟)、栗(15a)を生産(数字はいずれも2014年)。2009年、JAそらち南内に「ゆめぴりか生産組合」が発足されると同時に部会長に就任。丹精込めてつくるゆめぴりかが「第三回米グランプリinらんこし」でグランプリに選ばれた。

良食米をつくるための模索の日々

札幌から東に約40kmの所にある栗山町。この地で南坂明憲さんは父親と一緒に農業を始めた。春秋を除けば父親一人で作業ができたため、明憲さんは平日会社に勤めた。1980年代初頭から転作が強化され、南坂家も米一辺倒の経営を見直すことになった。麦を始めとする転作作物を導入したことで作業量が増した。そのため、南坂さんも会社を辞め、農業に専念するようになった。

農業に対する考え方は父親と異なる部分があり、「結構ぶつかった」と振り返る。「俺の場合、肥料は10年ぐらいの長いスパンでこのぐらいが必要だろうと考えるタイプ。ところが父親は“今年はこれぐらいやったほうがいい”と10aあたり13kg入れたりしていた。収量を求める時代だったのは確かだが、こんなに入れて大丈夫かと思いました(笑)」。

そんな父親も60歳で経営委譲してからは口ひとつ出さず、息子に任せるようになる。「品質やこだわりがないと選んでもらえない時代にちょうど入っていた」と1992年から苗づくりをそれまでの中苗から成苗に変えた。苗を大きくし、分けつさせてから本田に植えることで確実に一定の収量を確保しようというものだ。「俺は毎年安定して収量を上げたい、10aあたり10万円の売上は最低でも確保したい、そんな目標を持っていて、そこに近づくにはどうすればいいかと考え自然と成苗のほうに移行した」。

成苗により収量は安定し、作付けしていた「きらら397」では反収が550kgになった。ところが今度は米価下落が始まった。「米価がいい頃は、JAからの精算金額が1俵1万8000円という年もあったが、毎年ずるずる下がり、最終的に9800円という年も。これでは収量を上げても反当り10万円にならない。米で生き残るにはどうすればいいか」と模索する日々が続いた。

栗山町は空知総合振興局に属するが、南から吹く海風をまともに受ける地域で冷害もたびたび被った。食味も同振興局の中でも芳しいとはいえず、“やっかい米”などと揶揄されることもあった。「道南で生産が始まった“ふっくりんこ”を取り寄せて食べたらおいしかったので、ここでもつくろうと思ったが、栗山町の気候には合わないといわれた」。そこで、米以外の作物にも目を向け、涼しい気候をいかして夏場にほうれんそうをつくって本州に出荷したり、夕張系メロンづくりも始めた。メロンはいまもハウスで完熟させたものだけを毎年楽しみにしている個人宅に宅配で届けている。

そんな明憲さんに一筋の光明が差した。北海道だけでつくられる品種“ゆめぴりか”が開発され、2006年頃から道内各地で生産が始まっていた。ホクレンはブランド維持のため、栽培面積や出荷量に制限を設けていた。「なんとしてもつくりたい」と思った明憲さんは農業者仲間に呼びかけ、地元のJAそらち南に相談に出向き、ホクレン主催の説明会にも出た。明憲さんの熱意にほだされ、同JAはゆめぴりか生産部会発足を決心。2008年に部会ができ、明憲さんは初代部会長に就いた。

ゆめぴりかのほ場は、食味を上げるため窒素量を極力減らすなど栽培基準が厳格。我慢が必要な品種だ。「消費者に“北海道の米はすごい”という印象を持ってもらうには基準を守るしかない。米でブランドを確立できれば他の作物のブランド化にもつながる。北海道の農業全体にプラスになる」と南坂さん。

ついに“日本一おいしい米”に

満を持してのゆめぴりか生産。それは明憲さんたちにとって我慢のいる米づくりとなった。米の味はタンパク含有量に関連が深く、タンパクが低いほどおいしいといわれる。特に食味のよさを売り込むゆめぴりかは6.8%以下にすることを目安に生産されている。だがタンパク含有量を低く抑えるには、窒素肥料も抑えなければならない。窒素を控えれば、収量減につながる。部会員の間では「こんな厳しい基準で米がつくれるのか」と疑問の声もあがった。

明憲さんは部会員のことを考え、2009年から窒素施肥量を1kg減らすと収量にどう響くか、自らの水田を使って実験を始めた。窒素低減にともなう収量減を補うための農業資材の効果も実験した。その結果を普及センターの協力を得て分析し、部会の栽培手順書をつくりあげ、5年がかりの作業の末、施肥量とタンパク含量のバランスがとれるようになった。

きららと比べゆめぴりかの収量は1割ほど少ないが、ゆめぴりかの認知度が高まるとともに価格が上昇し、部会員は手応えをつかんだ。2009年から2012年にかけて、1俵あたりの価格が2500円ほど上昇し、部会メンバーもいつしか300人を超えるまでになった。
「やればできるとメンバーが確信を持てるようになったことは大きい」。

明憲さんにもうひとつの朗報が届いた。おいしい米ナンバーワンを決める「第3回米—1グランプリinらんこし」に自らの米を出品、グランプリの栄誉に輝いたのだ。道内の米処である蘭越町で開催されるイベントで、2013年は全国各地から233点の応募があり、1次審査を通過した30点が決勝に進出。産地や生産者名、品種を表示せずに15人の審査員が食べ比べだけで審査をするという掛け値なしの勝負。激戦を勝ち抜き、南坂さんのゆめぴりかは、日本一おいしい米としてお墨付きを与えられた。
審査員や食べた人たちの評価は「インパクトがある米」。口に入れて少し噛むと口当たりはソフトでありながら、甘みとねばりが同時に来る。それが食べる人に強烈なインパクトを与える。「私たちはもう食べ慣れてしまったけどね」と表情を崩す明憲さん。「何より栗山町という産地が注目されるようになったのはうれしい。厳しい手順をみんなで守ってきたからこそだと思う」。

7月初旬、ケイ酸石灰肥料を追肥する。「作業が手間」との理由でこの作業を省略する農家も多いが「稲が丈夫になり、米の増収や食味向上にもつながる」と明憲さんは手を抜かない。

現状維持は後退、常に挑戦するのみ

グランプリを受賞したことで産地にも変化が起きた。米業者から「栗山の米がほしい」という産地を名指しした注文が入るようになった。部会のゆめぴりかはすべてJAを通じ、関東、関西にまで広く販売されており、一部の米は「栗山舞」というブランドで札幌市の百貨店で売られている。今まで明憲さんらは北および中空知に視察に行くばかりだったが、逆に視察を受け入れるようになった。それでも明憲さんは言う。「100%満足というわけではない。主食用全体の需要が減っていることには変わらないから」。

産地ごとに栽培面積や生産量が決まっているゆめぴりかは高く売れるといって勝手に増やすことができない。決められた面積以外では他の米をつくるしかないが、米の値段が下がっている今、「次々に挑戦していかなければ稲作で食べていけない」―。明憲さんはすでに先を見据えてアクションを起こしている。

ひとつは反収のアップ。収量が上がるという微生物資材を2014年から使い始めた。「うちの田んぼを貸すから一緒に実験をしよう」と資材業者に声をかけ、共同プロジェクトにした。5年前から乾田直播も始めた。「収量を上げ、コストを下げてもなお収益を維持できなければ、飼料米など他の用途の米にも目を向ける。あらゆる可能性を排除せずにやるしかない」という。

40年以上連れ添ってきた幸子夫人の目に「とにかくまじめで几帳面」と映る明憲さん。彼がやろうとしているのは英語の勉強だ。「ある米卸の社長と国内ばかりに目を向けていてはだめだと話をしている。もしかしたらうちも法人化して営業マンを置いて、海外に売って出る日が来るかもしれない」。英語の勉強は来たる日に備えてのこと。
会社勤めをしている長男が明憲さんの後を継ぐ心づもりをしているという。「俺が息子から直接聞いたわけじゃないが、親戚にそんな話をしたようだ」とまんざらでもない表情。「毎年同じことの繰り返しでは進歩がない。今までやってきたことに少しでもプラスになることを見つけ、実践していきます」とまっすぐ前を向いて話す表情には一点の曇りもない。

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