2016.09.28

なぜヤンマーは、サッカーに情熱を捧げるのか? ヤンマーサッカー部の歴史が語る、企業とスポーツの関係性

セレッソ大阪へのスポンサードなど、ヤンマーとサッカーは切っても切れない間柄。サッカーファンのみなさんにも、サッカーを通じて名前を覚えていただいています。しかしそこに込められた理念や狙いは、これまであまり語られてきませんでした。

そこで、Y MEDIAではヤンマーとサッカーの結びつきについて様々な角度から取材、記事化していくことにしました。ご寄稿いただくのは、サッカー専門誌、ウェブサイトなど日本サッカー界の中心で活躍中のライター・川端暁彦さん。シリーズ連載第一回、早速お読みください。

 


一人のサッカー業界で働く者としても、一人のサッカーファンとしても、ずっと疑問に思っていたことがあった。恐らく、こんなクエスチョンを思い浮かべているのは私だけではないはずだ。

「なぜヤンマーは、サッカーにこれほどの情熱を捧げているのか?」

この一点である。現在はセレッソ大阪のメインスポンサーとして多大なエネルギーと情熱をJリーグに注ぎ込んでおり、ワールドカップ得点王のウルグアイ代表FWディエゴ・フォルランを獲得して話題を集め、香川真司や柿谷曜一朗といったスター選手の輩出も記憶に新しいところ。

こういった最近の事象のみを取り上げれば、単純に人気競技であるサッカーへ投資しているだけにも見えるかもしれない。だが、ヤンマーのサッカーに対する情熱的な取り組みはセレッソ大阪の前身であるヤンマーディーゼルサッカー部時代にまでさかのぼる。創部は、実に1957年。サッカーが完全なマイナースポーツだった半世紀以上前の時代から、ヤンマーとサッカーは切っても切れぬ関係を作ってきたのだとすると、話の見え方は変わってくるはずだ。

今回はそんな疑問を解き明かすべく、セレッソ大阪を運営する大阪サッカークラブ株式会社の現社長・玉田稔氏を直撃してみた。テーマは当然、「なぜヤンマーは、サッカーに情熱を捧げるのか?」である。この謎解きはすなわち、Y MEDIAで追い続けているヤンマーのブランドステートメント、A SUSTAINABLE FUTUREの実現へ向けた一つの取り組みを解き明かすことにもつながるはずだ。我々はセレッソ大阪の本拠地、ヤンマースタジアム長居とキンチョウスタジアムへ足を運んだ。前後編でたっぷりとお届けする。

 

大阪サッカークラブ株式会社 代表取締役社長 玉田稔

※取材者の所属会社・部門・肩書等は取材当時のものです。

セミプロと呼べる運営体制、ブラジルとの交流……企業スポーツを牽引し、求心力となったヤンマーサッカー部

ヤンマーディーゼルサッカー部は創部時、たった14人のメンバーで構成されていたという。サッカーは11人でやるスポーツなので、まさにギリギリの人数だ。しかし、1964年の東京五輪を機に創設された日本サッカーリーグ(通称:JSL。後のJリーグ発足のベースとなる)には創設時より参加。他の企業チームが社業との両立や多額の遠征費などに尻込みしたのに対し、ヤンマーの経営陣はむしろアクセルを踏み込んだというから、やはり異色である。故・山岡浩二郎氏(神崎高級工機製作所元社長、ヤンマーディーゼル株式会社元取締役)が旗振り役となっての取り組みだった。

ヤンマーサッカー部は最終的に、JSL優勝4回、準優勝3回、天皇杯も優勝3回、準優勝4回という燦然たる戦績を残すことになる。現在、大阪サッカークラブ株式会社の社長を務める玉田稔氏が、ヤンマーに入社したのはそんな黄金時代の最後の時期だった。

――まずは玉田社長とヤンマー、そしてヤンマーサッカー部との関わりを教えていただけますか。

入社は1977年のことですね。私はサッカーで入ったわけではないんですよ。一般社員として入ったのですが、大学(関西学院大学)の時にサッカー部でしたので、『それならサッカーをやってみたらどうか』と言われまして、籍を置くことになりました。ヤンマークラブ(2軍チーム。当時JSL2部)で1年だけプレーいたしました。翌年も『サッカーをやれ』と言われたのですが、『もう勘弁して下さい』と(笑)。そうしたら、釜本邦茂さんが監督(選手兼任のプレーイングマネージャー)になるタイミングでしたので、『マネージャーをやってくれ』と言われまして、2年間務めました。

――釜本さんと言えば、メキシコ五輪の得点王。当時のスーパースターですよね?

あの人は本当に別格でしたね。24時間一緒と言ったら大げさですが、2年間は付きっきり。ガマさん(釜本氏の愛称)と一緒にいた時間は僕が一番長かったでしょうね。選手は釜本さんと一緒に練習をするのを嫌がるんですね。厳しい人ですから。でも僕が相手だと下手過ぎるものだから、他の人と違って優しくしてもらいましたよ。(パス交換の練習で)僕がミスをしても、ボールを拾いに行ってくれましたから。『こいつは下手だから仕方ない』と諦められていたのでしょう(笑)。

――ヤンマーサッカー部は、会社の中でどう位置づけられたものだったのですか。

サッカー部の総監督も務められた山岡浩二郎さんが会社の組織運営の考え方として、「個の集まりの中でどう力を発揮するか」を考えられたことが出発点です。ここで言う「個」とは個人のことだけではなく、部や課のことも指していると思います。それをサッカーと比較されて、サッカーをしっかり運営できる組織ならば、会社もしっかり運営できるという考えでした。

――出発時点は弱小だったチームを、日本一にまで育て上げる過程はまさに会社をイチから発展させていく過程ともリンクしますよね。

大阪の5部リーグから始まっていますからね。上に行くうちにいろいろな相乗効果で強くなったわけですが、でも浩二郎さんの存在が何より大きかったのだと思います。怖かったですけれど(笑)、サッカーへの思いは本当に強くて、そして人間味のある豪快な方でした。日本サッカー自体に貢献した部分も大いにあったと思います。

――当時の社員にとって、ヤンマーサッカー部はどういう存在だったのですか?

「求心力」だったと思います。土曜や日曜にみんなそろって応援に出るというのも良い機会だったでしょうし、女性の新入社員はみんなチアリーダーをやりましたしね(笑)。ヤンマーの全盛期である鬼武監督在任中の11年間には7回、元日に開催される天皇杯決勝まで進んでいます。だから、ヤンマーの社員は「何故かは分からないが、元日にはヤンマーが国立で試合をしている」と思い込んでしまうくらい、強いイメージがあったそうです。

やはり強かったことは大きいと思います。当時、新聞に釜本さんの記事が載ると必ず「釜本(ヤンマー)」と書かれましたから。天皇杯決勝に出ればNHKで全国放送されましたし、広告宣伝価値に置き換えると当時で20億円くらいになるという分析も出ていました。会社の事業としては、そういう意味もあったと思います。

――強くあろうとした姿勢そのものが、企業スポーツのパイオニア的存在にさせたとも聞いています。

浩二郎さんが中心となり、いろいろと先進的な取り組みをされたと聞いています。サッカー部員のために、午前中に仕事が終わって昼から練習のできる体制を作ったことがまず画期的でした。昼食も夕食も会社から支給され、その次は土日にあるリーグ戦の試合に休日出勤手当を付け、平日の練習も夕方以降までやる時は残業手当が出るような、本格的な企業スポーツとしての仕組みを日本で初めて整えたのがヤンマーでした。他企業からアドバイスを求められるくらいでしたね。外国籍選手を初めて海外から呼んできたのもヤンマーですから。

――ネルソン吉村さん(日系2世のブラジル人で、日本へ帰化して日本代表としても活躍した)ですよね。

彼ら(ブラジル育ちの選手)のプレーを観た時は本当にビックリしましたね。次元が違いました。僕は元々自信もなかったので、なおさらでしたよ(笑)。当時、ネルソン吉村はブラジルヤンマーの社員で、研修生という扱いで日本に来たんです。彼も社員だったので、ブラジルに帰ったらヤンマーの仕事がきちんとできるようにと。その後はほとんど毎年、2~3名くらいのブラジル出身選手たちがいました。これも当時としては異例の体制だったと思います。ブラジルヤンマーに今で言うスカウトみたいな仕事をしている社員がいて、その方が上手な選手を推薦されていました。

逆のパターンで、選手を研修生としてブラジルヤンマーへ行かせることもありました。あるいはタイやインドネシアといった地域には積極的に遠征もして、現地の大会にも参加していました。これはヤンマーが強かったので、招待してもらえたんですね。

ヤンマーサッカー部からセレッソ大阪へ。
プロ化で変わる、ヤンマーにとってのサッカーの存在意義

強かったヤンマーサッカー部は、エース釜本の引退もあって1980年代半ばから低迷期を迎える。1991年には2部降格という屈辱も味わい、「古豪」という表現も使われるようになった。しかし、そんなチームはJリーグの開幕に際し、セレッソ大阪へと生まれ変わる。再出発を期すチームの元へ、サッカーから離れて営業マンとして活躍していた玉田氏が登場する。

――サッカーからは離れられていたんですよね。

12年くらいはサッカーと縁のない生活をしていました。1993年にJリーグが創設されて、ヤンマーサッカー部もそこに入ろうと動いたのですが、当初は認められませんでした。ホームタウンを決められなかったのが最大の原因でした。その時点でヤンマーとしてはあくまで企業スポーツとしてやっていこうという結論が一度は出たのですが、Jリーグにその旨を伝えに行ったら、逆に川淵三郎チェアマン(当時)から説得されたそうです。「ヤンマーさん、もったいないですよ。7回も日本一になっているチームなのだから」と。その時挨拶へ行った一人の鬼武健二さんは川淵さんの大学の後輩なんですね。そういう縁もあって説得をされ、あらためて検討した結果、やはりプロを目指そうということになり、社内に「サッカープロ化推進室」というものが発足しました。そこで僕が呼ばれたんです。

――サッカー部以来の関わりですが、大きな役割を担ったのですね。

ヤンマーで真面目に営業をしていたんですけれどね(笑)。外部の方にもご協力いただきながら、いろいろな企業にプレゼンして回り、いくつかの企業に出資いただいて会社設立に至りました。でも、会社ができてもJFLで2位にならないとJリーグに入れないということで、本当にやきもきしましたね。で最終的にはJFLで優勝し、1995年からJリーグに加盟することができました。そして私は1997年までセレッソで仕事をさせてもらい、ヤンマーに戻ることになりました。

――まさに激動の時代を過ごされたわけですが、企業がサッカークラブを持つ、サッカークラブにスポンサードする意味をどう捉えられていますか。サッカーマンとしてクラブ運営に携わり、営業マンとしては社外と接することもあった玉田さんなりに感じられていることもあるかと思います。

ずいぶんとその価値が変わってきていると思います。昔の企業スポーツは、社員の福利厚生の延長線上にあったものでしょう。その後プロ化した時には、会社として国内向けの広告宣伝価値としてはどうなのかという議論がありました。そして今強く感じるのは、企業として海外進出時に、サッカーチームを持っているということは凄くインパクトがあります。

OBの香川真司が活躍してくれていることもあって、欧州では「セレッソ」の名前がそれなりに行き渡っています。ヤンマーはマリンエンジンや建設機械を欧州で展開していますが、ドルトムントのスポンサーという立場で取引先の皆さんを試合に招待したりもできます。その時にまだまだ耳なじみの少ないヤンマーという会社と、彼らにとってはすごく身近なサッカーが結びつくわけです。「ああ、ドルトムントのスポンサーもして、香川を育てたセレッソというチームを持っている会社なんだ。すごいね」と。実際サッカーを通じて、欧州ではヤンマーの知名度はかなり高まったと思います。ただ、まだまだです。ヤンマーサッカー部もそうでしたが、やはり強くなくてはいけません。今は厳しい時期だと思いますが、もっと強くなるための努力をより重ねていかねばと思っています。

 


1957年に創設されたヤンマーディーゼルサッカー部。日本サッカーの黎明期を支え、先駆的な試みで手本となったチームは、セレッソ大阪に生まれ変わり、新しい道を歩み始めている。サッカーが持つ“組織力”をベースに、時代の要請に応えるかのように獲得した“グローバル性”は奇しくもヤンマーの経営におけるベクトルともリンクし、その力となっている。

世界で最も人気のあるスポーツであるサッカーを、様々な意味でのエネルギーに変えてきた。どこよりも早く情熱を注いだからこそ得られた財産があり、それを受け継いでいくことで伝統も生まれた。「なぜ情熱を注ぐのか?」といえば、それがヤンマーのアイデンティティとなっているからであり、サッカーの特質が企業理念と経営の方向性に合致しているからとも言えそうだ。

一方でヤンマー社員にとってサッカーの存在意義に変わりはないのであろうか。全盛期、企業の求心力となりえた、ヤンマーサッカー部。ブランドステートメント・A SUSTAINABLE FUTUREで掲げる資源循環型の持続可能な社会は、物質的な豊かさだけではない心の豊かさを得ることの重要性も説く。後編では、「なぜヤンマーは、サッカーにこれほどの情熱を捧げているのか?」を社員の目線から探っていく。

 

川端暁彦(かわばたあきひこ)

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。2002年から育成年代を中心とした取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。2010年からは3年にわたって編集長を務めた。現在はフリーランスとして『エル・ゴラッソ』を始め、『スポーツナビ』『サッカーキング』『サッカーダイジェスト』『ゲキサカ』などのサッカー専門誌、ウェブサイトほか各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。著書『Jの新人』(東邦出版)ほか。

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